めんどくさい母ちゃんの日記

理屈っぽい母ちゃんの日々の育児や保育園について思ったこと、義父母との同居生活の愚痴など書いています。

生活発表会を終えて

さてさて、娘の保育園の生活発表会(お遊戯会的な)が終わりましたので思ったことを少し・・・。

 

練習の様子や取り組みについて

はな子のクラスは和太鼓と歌の出し物でした。事前に連絡帳のやり取りで出し物の事を知ったんですけど、初めは「なぜに和太鼓!?」と思いました。運動会の記事でも書きましたが、私は、こういった出し物は子供たちの興味・関心に則したものであってほしいと思っています。ですが、この園でこれまで和太鼓に子供たちが触れ合う機会があった様には見えませんでしたし、はな子が和太鼓について家で話をしたり、マネをしたりということもありませんでしたので、子供が興味・関心を持っているのか疑問だったからです。
迷いましたが、先生に連絡帳で「何で和太鼓なのか?」をかる~い表現で聞いてみました。「年度初めから、長い積み木をバチのようにしてリズムを叩いて遊ぶクラスの子供たちの様子を見て決めました。」との事でした。さらに調べてみると、和太鼓は「リズムでの表現」「掛け声をかけるなど発声での表現」「足をふんばる。手を大きく振り上げる。ポーズを取るなどの身体面での表現」など多くの要素があり表現遊びに適した活動と言えるようです。

このやり取りを先生としたことで、私は「和太鼓であることの意味」を知ったわけなんですけど、このことをほかの保護者に伝えなくても良いの先生は?

 

あと家では一切和太鼓について話したり遊んだりしないはな子、連絡帳にも先生からは「お遊戯会へ向けて頑張っています。」「今日も練習頑張りました。」などのように具体的なことが書いていないので、子供たちがどのように活動しているのかわからないと思うことも多く当日を迎えました。

例えば「〇〇君は太鼓の音を聞いて~~と言っていました。」「〇〇ちゃんと△△ちゃんはこんなアイディアを出してくれました。」「みんなで掛け声はこうしようと話し合いました。」とかね・・・。先生も、大変なのはわかるけどさ。親としては毎日じゃなくても良いから具体的に楽しんで活動している様子を教えてもらいたいものです。「頑張った。」は(私だけでしょうか?)なんか、無理にさせられているというイメージがあるので。

 当日の娘の様子から

 当日のはな子の歌の出し物は「大きな声で、元気よく」とでも先生から言われていたんでしょう怒ったような怒鳴るような歌い方で正直ショックでした。クラスの子全体的に笑顔もありませんでした。歌やリズムといった表現を楽しんでいるようにはとても見えませんでした・・・。ただ、我が子の事ですから悪くばかりも捉えたくないので「(多分)先生に言われたことを思い出し大声で歌った。」「緊張していただろうに、健気にも練習の成果を出そうとした。」と思うようにしました。もう一つの出し物の和太鼓では「エイヤー」「ソーレ」等の掛け声をかける場面があり、そちらの声の出し方と同じになってしまったのかもしれません。

子供の育ちにとっては発表会本番(=結果)よりも練習(=プロセス)の方が大事と考えますので、毎日の練習が楽しい学びのあるものであればそれでよいのですが、発表会という形式をとっている以上、観客に「見せる」「見られる」という事も考える必要があると思います。子供に無理に練習させる必要はありませんが、先生方が「子供たちの何をどう見てもらいたいのか」意識して発表に持っていく工夫の余地はあるんじゃないかと思いました。

 

全体的な感想

子供達も楽しんでいて完成度の高いクラス。題材は子供たちが好きな歌や劇だったがいまいち力を発揮できなかった様子のクラス。完成度は高いが子供たちが楽しんでいない風だったクラス。など様々なクラスがありました。そんな本番だけを見て「うちの子全然ダメだったな。」とか「このクラスは全然できていなかったな。」とか勝手に保護者は評価してしまいがちなんですけど、先生としては「発表会当日までの取り組みの中でこんなことが成長した。」とか「〇〇ちゃんは本番でセリフは緊張して言えなかったけど、実は見てもらいたいのはコッチだった。」とかあると思うんですよ。

まさか、先生方の意図や目的が全く無いなんてことは・・・。

だったら、それを保護者に伝えなくていいんですか先生?子供たちの成長=先生の頑張りでもあるわけですから、そこんトコロもっと伝えてくれれば良いのにと思います。

 

 

 

旦那に生活発表会の感想を話していた時「みんな、そこまで考えてないと思うよ。何でこの出し物なのか疑問にも思わないと思うし・・」と言われました。

(いちいち面倒臭せー事考える人だな)の遠回し表現。

 

 

うん。だよね。わかってる。